2015年03月06日
ゲゲゲの鬼太郎
時々見る夢「ゲゲゲの鬼太郎」
子供の頃好きだったアニメのひとつにゲゲゲの鬼太郎がある
最近、大流行の妖怪ウォッチてあるけど
妖怪ブームの先駆者はたぶんゲゲゲの鬼太郎だろう。
ユーチューブとかでも見れるから興味のある人や懐かしい人も見てみたら?
1968年から始まって
なんと第一シリーズの65話は、原版も白黒映像なんだよね。
当時、まだ家にカラーテレビが無かったから
白黒なんだと思ってたけど
ほんの4~50年前なのに時代を感じるわ。
ところが白黒のよさを生かした映像も素晴らしいし
特にストーリーが良く出来てるの
なんか最近のアニメやドラマのストーリーと違って
いい感じでまったりジワジワ来るのよね。
こういう独創的な味は今のテレビ界じゃありえないだろうな。
流行を仕掛け流行を追いかけるためには
だんだん軽いタッチになってしまうのかな?
説明が簡単ですが
その後
1971年から第二シリーズが45話ほどあって
1985年からの第三シリーズがイメチェンした万人受け108話
やっぱりこれがすごい視聴率らしい
その後も映画化やスピンオフ作品や
1996年の第四シリーズ114話
2007年の第五シリーズ100話と
鬼太郎がなぜか明るいお茶の間のヒーローになっていった。
墓場の鬼が作り笑いでお茶の間にやってきたんだ。
でも2008年頃に深夜のノイタミナで公開された
「墓場の鬼太郎」は
最初に問題視された原作タイトルのままですごかったよ。
お茶の間で笑っていたヒーローに
突然呪いと邪気をかけられたくらいのショック
でも鬼太郎の真の姿はこっちなの
みんなの希望に答えてたらああなっただけなのよね。
音楽もあのピエール瀧さんがいる電気グルーヴで頑張ってくれたよね。
これだけ40年も作り笑いで頑張って
やっと原作のままのアニメを11話ほど作らせてもらった。
すごいねこの執念
まさに妖怪顔負けです。
おめでとう妖怪さん
2015年03月04日
「大器晩成」 老子 第四十一章
晩年に成功する人を
「大器晩成」って言うことがある。
大きな器だから
水を入れるのにも時間がかかるのだ。
しかし、最近の世の中は
機能やスピード重視
何でもコンパクトになった。
人間の器も小さいほうが
得をするのではないかと
思ってしまうほどだ。
だからどの世界も小回りの利く
お調子者が名をはせる。
しかし本来、人間の基本は大器晩成なんだよ。
時間をかけて辛抱強く積み重ねていくのが人生だ。
急に成功することなんて危なっかしくてしょうがないんだ。
まあもし貴方が短命なら
急いだほうが良いかもしれないけどね。
織田信長の時代は人間だいだい50年と言われた。
それでも努力と積み重ねで
男も女も今より若い頃から頑張っていたんだ。
いまや寿命が延びて100歳まで生きるのも珍しくない。
いまこそ人間の大器にたっぷり水を満たせるのじゃないかな?
とにかく時間を無駄にするな
何事も失敗しても諦めずに継続さ。
2015年03月02日
「帰る」 老子 第四十章
自然に死ぬことを「帰る」ようにも表現しますよね。
何処に帰っていくかと言うと
当然来た場所へですよね。
生きている間でも原点に帰ることが大切なときもあります。
都会で失敗してふるさとに帰ってやり直す人もいます。
年取って引退して田舎に帰り老後を全うする人も
仕事が終わって会社から家には
だいたい毎日帰っています。
奥さんが怒って実家に帰ってしまった人もいるかな
今日は旅行から帰る最後の日かもしれません。
子供の頃、自転車で遠くまで行ってしまって
夕焼け空を見ながら帰った思い出もありそうですね。
色々な「帰る」がありますが
人間にとって帰る場所は必要なんです。
帰る場所があるからこそ
そこから生まれてきて
人生が始まり終わりがあります。
結果はただのお土産程度のもので
ゆるやかに帰っていくのが
人間の人生の結論みたいなものです。
一度しかない人生だから
帰る日のその瞬間までしっかり生きなきゃ。
帰ってから笑われちゃうぞ
2015年02月28日
「物の価値観」 老子 第三十九章
「物の価値観」は比べる情報によって違います。
例えば値段が高いというのは
何かと比べるからですよね。
例えば
百貨店で千円で売られていものが
百円均一の店で売られていたら安いです。
しかし品質がいまひとつでゴミになるなら百円でも高いです。
比べる情報の豊富さで
価値観は決まりそうです。
よく田舎では
商売が難しいといわれています。
それは情報が豊富じゃないからだと
思われています。
といいましても
最近は何でもネットで調べられる
世の中になりました。
受け取る側さえ
柔軟になれれば
田舎も都会も関係ないのかもしれませんね。
タオでも「低があるから高がある」と言います。
何でも「高い」「安い」「駄目だ」「知らない」なんて
直ぐに結論を出さずに
ものごとの成り立ちを
調べてみれば
視野も広がり
豊かな人生になるのじゃないでしょうか。
2015年02月26日
「きれいごと」 老子 第三十八章
そもそも道徳が必要になったのは
人間が堕落したからだ。
有名な孟子が言うには
「仁義礼智」という美徳も
老子にかかれば
まるで装飾品扱いだと。
とにかく人間は他人から良く見られたい
親切な人だとか
立派な人だとか
他人から見て一緒にいると得する人
役に立つ人と見られたい。
しかし本音は他人のことよりも
自分がかわいい。
だから本音を飾るために沢山の装飾品が必要になる。
「仁義礼智」で飾られた人間は実に綺麗だ。
だけどその奥に
肝心なタオがあるかどうかはわからない。
2015年02月24日
「無為自然」 老子 第三十七章
タオでは自然に発展するものなら
人間が手を加えてはいけないと言う。
最近のテレビドラマでは
社会問題を扱ったものが多い。
例えば警察関係のドラマでは
必ずといってよいほど
汚職の話が出てくる。
実は汚職警官ほど
元々人より正義感が強く
無理して頑張っていた人が
多いのではないだろうか?
頑張っても頑張っても
報われないから
何かの弾みに壊れて
復讐のために
汚職をしているのかもしれない?
もし彼が社会という自然に
手を加えず
社会から求められることのみ
やっていたら
社会から裏切られることも
無かったのかもしれない。
理想や変革も大切だが
それは自然界自体が
考えることかもしれない。
少しくらい頭が良いからと
押し付けがましく
社会を操作しようとしたら
ろくなことが無いのは実証済みだ。
タオのルールではとにかく
自然の意思を尊重する。
自然や宇宙の方向性を知り
我々はそれぞれが担う
お役目を知り果たせば
十分社会も幸せに生かされるはずだ。
宇宙や自然の意思を知るのは簡単
見たままなのよ。
宇宙や自然は自然破壊を望みますか?
そうならきっと草木も芽吹かないはず。
宇宙や自然は誰かの独占や支配を望みますか?
それならきっと平等に水や空気を与えないはず。
宇宙や自然はお金を望みますか?
それならきっと実の代わりに金がなるでしょう。
2015年02月22日
「反対の法則」 老子 第三十六章
戦国時代の話だが
長年続く均衡の取れた敵を
完全に滅ぼしたいのなら
まず援助して盛んにしてやるという作戦がある。
盛んなものは必ず滅びるというのである。
もし力ずくで滅ぼしても
必ず相手は再建してくる。
しかも前よりも強くなっているものだ。
大戦や震災後の東京もそうだった。
心の法則も同じである。
たまたま成功したからといって
調子に乗って心まで慢心すれば
必ず破滅する。
伸びきった心は縮みやすく
危険なのだ。
物事は行き過ぎると反対へ極端に戻ろうとする。
仮に「反対の法則」とでもいいましょうか
でも
ほどほどが大切なのは解っているが
成功したら自慢もしたいし
支配もしたくなるのが人間の感情だ。
歴史も
繁栄と滅亡、
この繰り返しばかりだ。
どうしたらよいのだ?
だったらその成功を自分の手柄と思わなければ良い。
そのために昔の人は神社やお墓を発明したのかも。
それらは成功した人々が御礼をする場所だ。
実際、何でも宇宙のおかげなの
貴方が努力できたのも
その環境を
宇宙が与えてくれているわけだから。
本気で感謝しなよ。
慢心を防ぎ程よく続けるためにね。
今みたいに困ったときの神頼みで
誰もが神社に押しかけ
しかも願い事なんてとんでもない話で
正月に一回だけ五円玉を入れて
自分や家族だけが幸せになろうなんて
あつかましい限り
もっと努力してからお礼に行きなよ。
これらもある意味伸びきった心ですよ。
それって実は最初から
破滅を望んでいるようなものだって思いませんか?
だからうまくいくどころか
出てくるものは心配ばかりで
そういう危険な心に支配されてるのよ。
「反対の法則」に気をつけて
ほど良い心を持とうね。
2015年02月20日
「心の栄養」 老子 第三十五章
「心の栄養」をとってますか?
心の栄養ってどんなものかと言うと
食べられないし
生きていくためには一見無駄で
お金にも出世にもつながらない
不景気時の経費削減では
一番先に切り捨てられそうな
簡単に言うと
芸術などのようなカルチャーと呼ばれるものです。
例えば貧困時に芸術なんて出してきたら
それこそ殺されそうです。
でも
心を癒してくれるのは
音楽などの芸術かもしれません。
人間は簡単な物質で出来ていますが
それらには高貴な波動があり
その波動を心がコントロールし
なんとか魂が鎮座しています。
だから波動が乱れれば
魂はぬけてしまい
ただの肉の塊です。
体の栄養も大切ですが
心の栄養が足らないと
波動が乱れ
楽しくないとか.
やる気が出ない
最悪では原因不明の大病を頂くかもしれません。
例えばあなたの子供たちやお友達が
芸術の世界に進みたいと言ったとしましょう。
ほとんどの人がそんな食べていけるか解らないことは
やめたほうが良いと思うでしょう?
それは今の社会が表面的な
お金や物質ばかりに目を向けていて
それらをつないで行く
精神性には目を向けようとしないからです。
病気になるような社会を作り
病気の治療も出来ず困っているのと同じことです。
心の栄養は体の栄養と共に
我々には欠かすことが出来ません。
お金や物質は今の半分くらいにしておいて
あとは芸術を楽しみ
クリエイティブしてみてはいかがでしょうか?
近年の日本人は昔に比べ芸術センスが悪くなったと思います。
昔は海外からも注目され影響を与えた日本の文化が
いまの日本人の中には受け継がれていないような気がします。
いくら金持ちになっても
センスの悪い生き方では
豊かにはなりません。
数字的には経済大国ですが
国民の実感が何となくピンと来ないのは
「心の栄養」が足りていないからではないでしょうか。
2015年02月18日
「魂はお見通し」 老子 第三十四章
我々小さな人間の性質とは
よりアピールして大きく見せようと努力する。
社会に出るとおとなしい人間から手柄をとりあげ
ありもしない自分の功を誇る。
まったく社会競争なんて小さな人間度を
さらに宣伝して歩いてるようにしか見えない。
世間では嘘や誇大広告が大流行
でも騙された人々にはまだ余裕がある。
なぜか?
それは
騙す人間より
まだ騙される人間のほうの
スケールが少し大きいからだ。
さて、今日のテーマである
「魂はお見通し」
誰にでも魂くらいあるよね。
魂は決して騙されない
すべてお見通しだ。
でも自分が騙されてると魂は解っていても
魂は状況を止めてくれない。
成り行きに任せて見守るだけ。
それは魂にとっては
たいした出来事でもないからかもしれない。
反対に
騙している人の魂も
自分の心身が他人を騙していることを自覚している。
それも成り行きに任せて見守るだけ。
まるで親(魂)が子供同士(人間の心身)の小競り合いを笑いながら見ているようだ。
だから嘘をつこうが騙そうが裏切ろうが
どれだけ汚いことをしても
得することなんて何にもないのさ。
だって宇宙中にバレバレで
笑われているのがオチなのよ。
一生懸命人を騙して得しようとしている人を見ると
かわいそうで騙されたフリをしてくれる人間も居る。
でも騙した人は騙された人を馬鹿にしているんだよね。
これはもう漫才のネタ以外何者でもないほど恥ずかしい話だ。
「魂はお見通しだ」
だから
いい大人があまりみっともない生き方をするのはどうかな?なんて
私、ダルマはいつも何があっても自他共に「魂はお見通しだ」と思っているから
真実が見えるんだよね
みんなも気付いたら楽しいよ。
2015年02月16日
「自分に打ち勝つ大切さ」 老子 第三十三章
タオでは他人とは争わず、
「自分に打ち勝つ」ことが最高の勝利だという。
例えば
みんながやっているように他人を押しのけ
社会で成功者と言われるようになっても
死んでしまったら何も残らない。
しかし
タオでは死んでも未来につながるという。
そのためには「自分に打ち勝つこと」
その第一歩目では
他人を知る前に
まず自分を知る必要がある。
あなたは本当に自分を知っていますか?
世間で流れる面白おかしい作り話にたいするように
自分に興味を持てますか?
ほとんどの人が自分を棚に上げて
人のことばっかりになってるのじゃないかな?
これだけテレビやネットが発達したのも
人の心のそういう隙間が問題だと思うよ。
最近はゲームの世界に入りびたりで
現実の生活が営めない人間も居るらしい。
自分をおろそかにしては結局何も出来ない。
他人の秘密は知りたがるが
自分のことを言われると腹が立つ
だから現実逃避が得意技
これも幼児の反抗期みたいなものよね。
成長できない大人たちが
子育てをするからこれまた最悪。
とにかく不満言ってる暇あったら
自分で何とかできないか努力することが大切
「自分に打ち勝つ大切さ」は
道(タオ)と
つながっているから
きっと宇宙も協力してくれるよ。
2015年02月14日
仏陀と老子
シリーズで「老子」のチャネリングを行なっていますが
メッセージが指している対象がシンプルすぎてスゴイ
老子とは人間として実在しなかった説もある。
チャネリングしてみても人間臭さが全く無い。
どちらかと言うと宇宙意識に近い。
古典「老子」からのいい伝えでは
老子は生前、
教えを何かの文章を残そうとはしたくなかったらしい。
普段も何かを教えるわけでもなく
彼の弟子たちもただ毎日彼とすごし
彼のエネルギーを共有することしかなかった。
ある日、
老子は自らの生の終わりを予感し
山奥へ旅立とうとした。
国境を越えるところで、
役人をしていた弟子の一人が彼を拘束し
「後のために教えを文章にしないと、
ここを通さない」と脅しました。
老子が文章を書かなかったのには
ちゃんとした意味があると思います。
言葉や文章では伝わらないものもあるし
間違って解釈され伝わってしまうと
未来への害になるからです。
でも結局文章にされたのが
古典の「老子 道徳経」だといわれています。
そしてそれを何世代にもわたって
いろいろな人々が研究、
翻訳してきましたが
その言葉の意味を真に受けても
使い物にならない。
私が思うに原文の言葉は言葉であって言葉ではない
なにかを引き出すためのマントラのような気がします。
そこから我々一人ひとりがメッセージを引き出すまで
「老子 道徳経」は実質的には封印されることになりました。
同じような言い伝えが「仏陀」にもあります。
彼は悟りを開きましたが
人々に教えることを断りました。
神話では天界から神様が沢山降りてきて仏陀を説得したとありますが
それは単なる宗教の勧誘に向けての美談でしょう?
彼が悟りを開いたわけで
「その答えを他の人が聞いても悟れるわけないじゃん」
と仏陀が言ったかどうかは知りませんが
とても言葉では語りつくせる代物ではありません。
悟りとは最もシンプルなものですが
何とか言葉で表現しようとするとどんどん複雑になります。
仏教を作った大変頭の良い方々のおかげで
仏陀の悟りは複雑怪奇な言葉の塊になり
考えつくされた天国と地獄システムは我々を脅し続けます。
「世の中には言葉で説明できない、
説明なんてしなくて良いものが本物として
確かに在るんですよ」
と仏陀が言ったかどうかは知りませんが
反対に言葉で説明できる程度のものは
だいたいが偽者で高が知れている。
色々立派な言葉を並べたてて
これは大変ありがたいものなんですと頂いても
使い物にならなければ捨てるに捨てられない最悪のお荷物でしょ。
「仏陀と老子」
彼らは悟りました。
ただそれだけです。
それ以上でもそれ以下でも無い。
だから我々も悟りに向けてただ生きればよい。
「仏陀や老子から答えを聞くのじゃない
彼らから答えの導き方を学ぶんですよ」
例えば
フェアライトで開催してるダルマのセミナーも
そこの所を重視しているんですよ。
例えばカード占いのセミナーでは
カードの意味なんて
全部覚えたって結局使い物にならないでしょ???
もし覚えた全部以外の意味をカードが
伝えるように言っているときはどうするの?
同じカードでも意味なんて毎回違うから
たとえ丸覚え出来ても
どんどん意味なんて増え続けるのよ。
それにただ上っ面を覚えただけの
ロボットみたいな占い師に
診てもらうのも怖いじゃん
だから、うちでは独自の秘法で
メッセージの導き方を教えてるんですよ。
うちのその他のセミナーにも
そのような秘法があります。。
「仏陀や老子から答えを聞くのじゃない
彼らから答えの導き方を学ぶんですよ」
仏陀や老子は言います。
「無理に答えだけを教えるから
我々が心配していたように世の中がなってしまったじゃないか」
幸せや悟りと言われるものも
それぞれのペースで
それぞれが獲得していけばよいのです。
焦る必要もないし
もちろん競争でもないから。
すべての人が素晴らしい人間として
この世に生まれてきたのですから。
2015年02月12日
「道(タオ)とは?」 老子 第三十二章
老子の言う「タオ」とは日本語では「道」と訳されているが
言葉と言うものは意外と表現力に乏しいもんだ。
ではその「道」とは何なんだろうか?
日本では武道をはじめ
「道」と名の付く教えが沢山ある。
それらは、より良い生き方や考え方を学び、
心身鍛錬のための修行方法でもある。
老子からのチャネリングでは
少しそれとは違う「道」を言う。
日本語で言う「道」は「何かをやろうとする」が
老子の「タオ(道)」はそこに在るもの自体を指している。
「ただ宇宙が存在する」にたいして
それ以上我々人間が違う方向へ何をするんだってことなんだ。
みんな日々文句ばかり言うけど
実はすでに全てが完全なバランスでそろっているんだ。
言い方を変えると老子の「道(タオ」)」は「何もしない」のかもしれない。
もちろん無気力になれと言っているのではないから
解釈は更に厄介だ。
でも簡単に言うと
もし宇宙の気持ちや目的が解れば
それを一生懸命、わき目も振らずにやりなさいってことなんだ。
それが「タオ(道)」ってことなんだよね。
言葉と言うものは意外と表現力に乏しいもんだ。
ではその「道」とは何なんだろうか?
日本では武道をはじめ
「道」と名の付く教えが沢山ある。
それらは、より良い生き方や考え方を学び、
心身鍛錬のための修行方法でもある。
老子からのチャネリングでは
少しそれとは違う「道」を言う。
日本語で言う「道」は「何かをやろうとする」が
老子の「タオ(道)」はそこに在るもの自体を指している。
「ただ宇宙が存在する」にたいして
それ以上我々人間が違う方向へ何をするんだってことなんだ。
みんな日々文句ばかり言うけど
実はすでに全てが完全なバランスでそろっているんだ。
言い方を変えると老子の「道(タオ」)」は「何もしない」のかもしれない。
もちろん無気力になれと言っているのではないから
解釈は更に厄介だ。
でも簡単に言うと
もし宇宙の気持ちや目的が解れば
それを一生懸命、わき目も振らずにやりなさいってことなんだ。
それが「タオ(道)」ってことなんだよね。
2015年02月10日
「軍隊と葬儀」 老子 第三十一章
古き風習にのっとると
祝いの席では左側に上位の人間が座り
葬儀の席では右側に上位の人間が座ることになっている。
軍隊では上位の人間は右に座る。
これは戦いに勝っても喪に服す、
葬儀の作法に習っているという。
武器は不吉な道具だし
本来の人間は人殺しではない。
しかし金や権力が絡むと
そうとばかり言ってられないらしい。
そして次第に有事中心の思想になっていく。
人間の作り出すものは恐ろしい。
しかし、やはり変わらない真実がある。
「武器は不吉な道具で
本来の人間は人殺しでない」
軍隊が葬儀の座り方に習うような
人間らしい精神を忘れてはいけない。
それが形式だけになってしまってはいけないのだ。
本当に恐ろしいのは
それらが形式だけになってしまったときかもしれない。
体裁だけの無意識な人間は
それ自体が凶器になる可能性があるのだ。
2015年02月08日
「争いから生まれるもの」 老子 第三十章
もしあなたが強い権力や大金を持って生まれてきたとしよう。
きっと貴方は何かを支配しようとする。
それでも飽き足らなければ
更に支配を広げるために他の勢力と争いを始める。
「争いから生まれる不幸」はその力が強ければ強いほど大きなものになる。
屍は山となり
貴方の力が強ければ強いほど屍の山は大きくなる。
最後に貴方は一人ぼっちになりその屍の山の頂上で泣いているだろう。
まだ歴史上存在しないが
もし世界の頂点に立てる人間がいたらそうなるだろう。
彼らはその頂点を目指し日々争いを続けている。
このばかばかしいパワー合戦は
人間はまだ「不幸が争いから生まれること」の真相を知らないから起こっているのだ。
2015年02月04日
「恋愛成功の奥義」 老子 第二十九章
老子が教える恋愛のコツ?
人を愛すると二つの扉が同時に開くと言う。
それは?
天国の扉
と
地獄の扉だ。
また、物事には程よい中庸(中心)が必ずある。
例えば
いくら相手のことが好きでも
借金をしてまで贈り物を続けては
すぐに目の前は借金地獄だ
天国に行くつもりが無理に頑張りすぎると
必ず地獄に落ちる。
人間は何でも極端なことをする。
天下を取ろうとした歴史上の偉人が
人生に成功した例は皆無だ。
ほとんどのストーリーは美化しているが
実際は最後に地獄を見たのが現実だ。
現在でも特に恋愛では
そうなってしまうことが多いのじゃないかな?
西洋では恋は盲目とも言われる。
盲目ではない天国と地獄の扉が
しっかり見えている人は
きっと恋愛を乗り越えることが出来るはずだ。
最近の男性は草食系とも言われる。
実は最近の女子も草食系だとおもう。
だって昔はもっと凄い肉食系女子がたくさんいたよ。
草食系=程よいのであれば
それはそれで良い事かも知れない。
彼らには地獄の扉が見えているかもしれないから。
でも極端に行ってしまうと
だから結婚しない
地獄の扉しか見えないのも困る。
タオの悟りとは
結婚しない恋愛しないみたいに
何もやらないのが良いようにとられがちだが
何もやらないのは
動いてる時間や宇宙に逆らい邪魔しているのと同じことだ。
タオの言う
何も影響を与えないような生き方は難しいが
現実的には時間の流れに合わせて生きることがタオに近い生き方だ。
日の出と共に起き、
日の入りと共に寝る。
タオの恋愛もごく自然現象だ。
思春期になるとお互い惹かれあい
いっしょに暮らしだす
必要なだけ愛情を注ぎ
子供が生まれれば次の世代に橋渡しをする。
まるで春になったら森のあちこちで小鳥が愛をささやいているような現象だ。
こんなシンプルなことが本当の幸せかもしれない。
我々は何でも複雑(不自然)に考えすぎているのだろうか。
「自然に考えるとシンプルになる」
これがタオが伝える恋愛成功の奥義かもしれない。
2015年02月02日
「囚われの心」 老子 第二十八章
前章でも申したが
この世では肉眼で見えないテリトリーの方が広く存在する。
だから
目に見えたと思うものばかりに囚われると
人生の全体像が歪む、心が歪む、人間や性格まで歪む。
物事は
そうに違いないじゃなく
そうかもしれないし
結局のところ計り知れない。
今日のテーマ「囚われの心」は
今、地球上の人間を苦しめている。
身近な生活の中でも同じことだ。
囚われた心は叫び続ける。
だから
もっと心を解き放て
思い込むな
取り越し苦労も捨てろ。
宇宙は広いから行き詰るほうが難しいはずなのに。
みんな平気で行き詰ってるよね。
それって広い家を買ったのにトイレで生活しているようなものだよ。
囚われの心にかけているブレーキさえ解除できれば
人間にはあらゆる可能性がある。
だって人間の得意技は
偶然や奇跡を起こすことなの。
地球上の生物の中で宇宙の頂点と
最もつながっているのが人間なんだよ。
2015年01月31日
「妖精の光を見る日」 老子 第二十七章
フェアリー(妖精)のメッセージ
妖精の光は自然の光
普段は目には見えない光だけど
そこにあるのは間違いない。
実際、人間の肉眼そのものは
さほど性能が良くない。
だから自然界にあるのに見えないものは沢山ある。
歴史上の偉業とも言われる発見も
もともとあるものなのに発見とはこれいかに?
例えば空気や細菌、放射能も肉眼では見えないが
もともと凄い力をもっているよね。
しかし人間は何故か目で見えないものを否定したがるから
被爆した食材でも偉い先生がもう安全といえば大丈夫だと思う。
しかも判断の基準は「信じる」「信じない」だから。
まだまだ時代は狭い考え方を受け入れてる。
でも、そんな人間たちは無理な思い込みで大変苦しむ。
ちょっとしたことで人を憎み、自分にも失望する。
それは見えてる(そうに違いない)と錯覚したものに脳が支配されているからだ。
己が作り出した幻は思い込みを巧妙に支配するのだ。
しかしどうだろうか?
この世には目に見えないものが沢山ある。
貴方を苦しめた悪い人間の心にも真心があり愛が住む。
反対に貴方が愛する人間の中に悪魔が同居している。
人を「信じる?」「信じない?」
どうだって良いじゃない
貴方の判断が自分にとって都合の良いところしか見えていないんだったら
直ぐに今の評価は裏切られるよ。
妖精は言うよ
ただあるのだと
評価や結果を気にしたって宇宙は待ってくれない。
全てはここに、いま、ただあるのさ。
妖精の光
フェアライトはそう言っている。
だから、もし肉眼で見えない光が偶然見えたときはそういうメッセージなんだ。
2015年01月29日
「根っこのお話」 老子 第二十六章
今日は根っこのお話です。
最近の若者も年寄りも
それ以外の年齢の人も何か軽くなったと思いませんか?
それはカッコイイのか?明るいのか?
薄情や無責任なのか?流行なのか?
よくわかりませんが
逆にくそ真面目で重い人間が
嫌われるご時勢なのは間違いありません。
しかし自然界では
重いものが軽いものを支えています。
まるで根っこのように土に張りめぐらされ
軽い葉っぱや花を支えています。
社会が軽い人間であふれれば
支える人間がいなくなります。
例えば
仕事なんて金さえ稼げればよいから
いい歳してもフリーターで十分と
ついでに年金も税金も大嫌い。
当然責任持たされるのも大嫌いだから
仕事を通して学びの積み重ねもしない
そんなのを自由だと履き違えている。
それは自由じゃなく軽いだけなのよ。
軽い人間は誰かに支え続けられないと
生きてはいけないの。
でもこのままいけば
この先誰が支えるのでしょうか?
ひとつだけヒントを伝えれば
今の流行の軽い価値観は
逃げの価値観なの。
カッコイイのじゃなく
かっこ悪くなりたくないだけなの。
泥だらけになって
地道に努力する姿を
カッコ悪いというのは
その先の光が見えていないだけよ。
軽い人間は
真剣で真面目に努力する
重い人間を暗いと茶化すが
実際には軽い人間のほうが
心の奥に不安を抱えていて苦しいはず。
最後にタオの奥義をひとつ。
「静は動を支配する」
これは根っこの人間として積み重ね、
人を支える人間に成る為の日々の心構えだ。
世間でつまらないドンチャン騒ぎがあっても
決して騒がず「静」の中にいること。
例えば
積み木を高く積むときに貴方は騒ぎます?
静かに息を潜めるでしょ。
大騒ぎしている人は積み木を崩してしまった状態なのよ。
2015年01月27日
老子 第二十五章 「人間は偉大だ」
老子曰く
人間ってみんなが思っているよりもっと偉大なものなのよ。
宇宙の広さや地球上にいる70億の人間の数を考えたら
自分はちっぽけな存在に思ってしまうかもしれないけど。
自然の法則と頂点でつながっているのは人間だけなのよ。
だから地球を滅亡させるのも繁栄させるのも人間に大きな責任があるのよ。
スピリチュアルなレベルでも地球をお預かりしている存在が人間なの。
まだ未熟だった古代の人間でさえ自然を神と崇め、自然現象と対話し克服してきた。
それがいまやお預かりしている資源をあさり自然破壊を本業としてしまった。
宇宙からお預かりした地球は売買され金儲けの手段になっている。
これって行き着く先は資源だけではなく水や空気、食べ物に至るまで全て換金されてしまうのだ。
そこに残るのはお金ばかりだ。
換金が進めば進むほどお金がどんどん価値を失っていき最後はただの紙切れになる。
もちろんただの紙切れは食べられないよね。
みんなが恐れる自然現象、地震や津波も危険だけど生き残って復興することも出来るかもしれない。
しかし換金が進み自然や食料が消えてしまうのはもっと深刻な問題ではないだろうか?
価格下落を防ぐため、機械で沢山の農作物を潰す場面にたまたま出くわした。
色々事情もあり、お金の社会では常識なんだろうが
なにか言葉に出来ない恐怖を感じた。
我々はもっと原点に返るべきではなかろうか?
どこかで道を間違ったのではなかろうか?
もし今の人間が偉大ではない生き方の方向に行ってるとしたら
タオが言う「人間は偉大だ」から外れた、
人間じゃない生き方をしているのではないだろうか。
2015年01月25日
老子 第二十四章 「何か無理してない?」
今日のタオ(道)は自分が無理してないかチェック
何をやっても疲れてしまってうまくいかないときは
きっと無理してるんじゃない?
コツコツと努力の頑張りは必要だけど
人の目を意識しすぎるために起こる無理は良くないんじゃない?
人にもっと良く見られたいと
嘘をつき真実を隠そうとするよね。
でも人間背伸びをすればするほど足元がぐらつくんじゃないかな?
自分を大きく見せたい、
偉く見られたい、
勝ち組、成功者、幸せに見られたい。
だからどんどん背伸びをするわけ
そんな爪先立ちなんて
ちょっと風が吹いたら転げちゃうよ。
成功者の間でさえ「功を誇るものは功を失う」って言うんだから
ほんと気をつけないとそういう無理は禁物なのよ。
タオ(道)では不自然な作為(無理)は長続きしないと言う。
人の目を過剰に気にしないことが自然な行いへの第一歩なんだと思うよ。