2015年01月19日

老子 第二十一章 「いまここ」


老子の 第二十一章

テーマはhere now 「いまここ」

我々は一日のうちに何回「いまここ」にいることを意識するだろうか?

意識しなくても我々はいまここにいる。
しかし意識しないと「いまここ」にいない。
この意味が解るだろうか?

人間の魂は意識してこそ働くのだ。

何かを仕出かして
無意識にとか
悪気無くなんて
言い訳にもならない。

例えばピアノを弾くとしよう。
教わったとおりにプログラムされたとおりに
指の運動演奏なら
魂に響く音楽は聞こえてこない。
それならオルゴールのほうがマシだ。
しかし、例え技術が追いついていなくても「いまここ」で魂が表現すれば貴方だけの音が奏でられる。

絵を描く場合でも同じだ
幼稚園の園児が素晴らしい絵を描くことがある。
この子には才能があると
無理やり絵を習わせたとしよう。
大人になって彼女は綺麗な絵を描くが
あの素晴らしい絵は逃してしまうかもしれない。
彼女は「いまここ」を遠い昔に忘れてきたのかもしれない。
しかし「いまここ」を取り戻せばいつでも彼女は天才に戻れる。

「いまここ」とはわくわくすること
生き生き生きている瞬間だ。

世間では景気の先行きが心配だの、
災害が来るかもしれないだの、
老後のことや、まだなってもない病気の心配で
取り越し苦労ってやつですか
それにすでに終わったことに対しても
憎んだり、見返してやるだの、心に傷が付いただの・・・

それも皆さんにとっては大変大切かもしれないけど
もっともっと大切な「いまここ」はどこに行っちゃったんですか?


例えば
うまいもの食うのに評論家がノウガキばかりたれてるのと同じよ。
食べてみてうまけりゃ良いじゃないの
いくらすごい物でも口に合わなけりゃ仕方が無いじゃないの

そういう個人の考えを言えない世の中だから「いまここ」を忘れちゃうのよ。

もうひとつ例えば
小学校の教室で先生が最初の生徒に質問した。

先生 「~について思ったことを答えてください」
生徒 「みんなと同じ答えです」
先生 「そうです、よくできました」

おかしいよね?
でも大人の世界ってそうでしょ?