2015年01月31日
「妖精の光を見る日」 老子 第二十七章
フェアリー(妖精)のメッセージ
妖精の光は自然の光
普段は目には見えない光だけど
そこにあるのは間違いない。
実際、人間の肉眼そのものは
さほど性能が良くない。
だから自然界にあるのに見えないものは沢山ある。
歴史上の偉業とも言われる発見も
もともとあるものなのに発見とはこれいかに?
例えば空気や細菌、放射能も肉眼では見えないが
もともと凄い力をもっているよね。
しかし人間は何故か目で見えないものを否定したがるから
被爆した食材でも偉い先生がもう安全といえば大丈夫だと思う。
しかも判断の基準は「信じる」「信じない」だから。
まだまだ時代は狭い考え方を受け入れてる。
でも、そんな人間たちは無理な思い込みで大変苦しむ。
ちょっとしたことで人を憎み、自分にも失望する。
それは見えてる(そうに違いない)と錯覚したものに脳が支配されているからだ。
己が作り出した幻は思い込みを巧妙に支配するのだ。
しかしどうだろうか?
この世には目に見えないものが沢山ある。
貴方を苦しめた悪い人間の心にも真心があり愛が住む。
反対に貴方が愛する人間の中に悪魔が同居している。
人を「信じる?」「信じない?」
どうだって良いじゃない
貴方の判断が自分にとって都合の良いところしか見えていないんだったら
直ぐに今の評価は裏切られるよ。
妖精は言うよ
ただあるのだと
評価や結果を気にしたって宇宙は待ってくれない。
全てはここに、いま、ただあるのさ。
妖精の光
フェアライトはそう言っている。
だから、もし肉眼で見えない光が偶然見えたときはそういうメッセージなんだ。
2015年01月29日
「根っこのお話」 老子 第二十六章
今日は根っこのお話です。
最近の若者も年寄りも
それ以外の年齢の人も何か軽くなったと思いませんか?
それはカッコイイのか?明るいのか?
薄情や無責任なのか?流行なのか?
よくわかりませんが
逆にくそ真面目で重い人間が
嫌われるご時勢なのは間違いありません。
しかし自然界では
重いものが軽いものを支えています。
まるで根っこのように土に張りめぐらされ
軽い葉っぱや花を支えています。
社会が軽い人間であふれれば
支える人間がいなくなります。
例えば
仕事なんて金さえ稼げればよいから
いい歳してもフリーターで十分と
ついでに年金も税金も大嫌い。
当然責任持たされるのも大嫌いだから
仕事を通して学びの積み重ねもしない
そんなのを自由だと履き違えている。
それは自由じゃなく軽いだけなのよ。
軽い人間は誰かに支え続けられないと
生きてはいけないの。
でもこのままいけば
この先誰が支えるのでしょうか?
ひとつだけヒントを伝えれば
今の流行の軽い価値観は
逃げの価値観なの。
カッコイイのじゃなく
かっこ悪くなりたくないだけなの。
泥だらけになって
地道に努力する姿を
カッコ悪いというのは
その先の光が見えていないだけよ。
軽い人間は
真剣で真面目に努力する
重い人間を暗いと茶化すが
実際には軽い人間のほうが
心の奥に不安を抱えていて苦しいはず。
最後にタオの奥義をひとつ。
「静は動を支配する」
これは根っこの人間として積み重ね、
人を支える人間に成る為の日々の心構えだ。
世間でつまらないドンチャン騒ぎがあっても
決して騒がず「静」の中にいること。
例えば
積み木を高く積むときに貴方は騒ぎます?
静かに息を潜めるでしょ。
大騒ぎしている人は積み木を崩してしまった状態なのよ。
2015年01月27日
老子 第二十五章 「人間は偉大だ」
老子曰く
人間ってみんなが思っているよりもっと偉大なものなのよ。
宇宙の広さや地球上にいる70億の人間の数を考えたら
自分はちっぽけな存在に思ってしまうかもしれないけど。
自然の法則と頂点でつながっているのは人間だけなのよ。
だから地球を滅亡させるのも繁栄させるのも人間に大きな責任があるのよ。
スピリチュアルなレベルでも地球をお預かりしている存在が人間なの。
まだ未熟だった古代の人間でさえ自然を神と崇め、自然現象と対話し克服してきた。
それがいまやお預かりしている資源をあさり自然破壊を本業としてしまった。
宇宙からお預かりした地球は売買され金儲けの手段になっている。
これって行き着く先は資源だけではなく水や空気、食べ物に至るまで全て換金されてしまうのだ。
そこに残るのはお金ばかりだ。
換金が進めば進むほどお金がどんどん価値を失っていき最後はただの紙切れになる。
もちろんただの紙切れは食べられないよね。
みんなが恐れる自然現象、地震や津波も危険だけど生き残って復興することも出来るかもしれない。
しかし換金が進み自然や食料が消えてしまうのはもっと深刻な問題ではないだろうか?
価格下落を防ぐため、機械で沢山の農作物を潰す場面にたまたま出くわした。
色々事情もあり、お金の社会では常識なんだろうが
なにか言葉に出来ない恐怖を感じた。
我々はもっと原点に返るべきではなかろうか?
どこかで道を間違ったのではなかろうか?
もし今の人間が偉大ではない生き方の方向に行ってるとしたら
タオが言う「人間は偉大だ」から外れた、
人間じゃない生き方をしているのではないだろうか。
2015年01月25日
老子 第二十四章 「何か無理してない?」
今日のタオ(道)は自分が無理してないかチェック
何をやっても疲れてしまってうまくいかないときは
きっと無理してるんじゃない?
コツコツと努力の頑張りは必要だけど
人の目を意識しすぎるために起こる無理は良くないんじゃない?
人にもっと良く見られたいと
嘘をつき真実を隠そうとするよね。
でも人間背伸びをすればするほど足元がぐらつくんじゃないかな?
自分を大きく見せたい、
偉く見られたい、
勝ち組、成功者、幸せに見られたい。
だからどんどん背伸びをするわけ
そんな爪先立ちなんて
ちょっと風が吹いたら転げちゃうよ。
成功者の間でさえ「功を誇るものは功を失う」って言うんだから
ほんと気をつけないとそういう無理は禁物なのよ。
タオ(道)では不自然な作為(無理)は長続きしないと言う。
人の目を過剰に気にしないことが自然な行いへの第一歩なんだと思うよ。
2015年01月23日
老子 第二十三章 「あるがままに」
「あるがままに」とは意外と難しいものだ。
それは、在るものに干渉しないこととも解釈できる。
我々は条件が整えば直ぐに何でも干渉したがる
他人の不幸を安全な場所で観たい。
うわさ話に耳を傾けてしまう。
多数派に付けばさらに勇気百倍で
弱い立場の場所へ石を投げ込むこともできる。
自然破壊が進めば動物たちのテリトリーにまで土足で干渉する。
今の社会はそんな卑怯な干渉が当たり前のようになった。
逆に困っている人が目の前にいても干渉しない。
自分が危険な状態のときも無責任に他人のせいにする。
それが社会の「あるがまま」になってしまった。
老子(タオ)の「あるがまま」はどうだろう?
宇宙は宇宙として
自然は自然として認め
失敗は失敗として受け入れ
徳は徳として
道は道としてあるがままだ。
タオの「あるがまま」の人は物事を捻じ曲げない
干渉しないのが一番の道だと知っているから。
どんな嵐も直ぐに去るから
集団心理で暴力や悪事を働いて人を傷つけることも必要ない。
他人の不幸を知る必要も無く
うわさ話なんて何の役にも立たない。
目先の利益でわざわざ自然を破壊することは大きな損失だ。
逆に困っている人が目の前にいれば助けるのが自然だし。
自分が危険な時は自分のこととして十分な力を発揮できる。
タオの「あるがまま」は宇宙の営みだ。
宇宙はそういう人を応援してくれる。
2015年01月21日
老子 第二十二章 「逆転の発想」
老子 第二十二章は「逆転の発想」
一般的に世間はおとなしい人間を甘く見る。
さらに彼が何をされても黙っていると舐めてかかってくる。
だまそうとしたり、酷い目に合わそうとする
しかし彼はまるで宇宙のような静けさで全てを見ているのだ。
実はすべてを解っているのだ。
これが最も怖い人だ。
自然の摂理では静から動に転じるから大きな力を発揮する。
逆にいつも偉そうに宣伝しているような人なら
軽く足を引っ掛けるだけで勝手に地獄まで転げ落ちてくれる。
しかし世間は偉そうにしている人がお好きだ。
頼りにしてゴマすりする。。
そして集団になって転げ落ちていく。
本当に賢い人間は敵が余りに静かだとかえって用心するものだ。
本当に賢い人間は自身も静かに耳を澄まして生きている。
逆転の発想とは
マイナスに見えるものの中にこそ
大きなプラスがあると言うことだ。
世間の人は自分のマイナスばかり言い訳にして立ち止っている。
だから逆転の発想で自分のマイナスをプラスに変えてみようよ。
きっと大きなエネルギーになるよ。
もう一度言う
マイナスは静から動へ転じる瞬間だ。
2015年01月19日
老子 第二十一章 「いまここ」
老子の 第二十一章
テーマはhere now 「いまここ」
我々は一日のうちに何回「いまここ」にいることを意識するだろうか?
意識しなくても我々はいまここにいる。
しかし意識しないと「いまここ」にいない。
この意味が解るだろうか?
人間の魂は意識してこそ働くのだ。
何かを仕出かして
無意識にとか
悪気無くなんて
言い訳にもならない。
例えばピアノを弾くとしよう。
教わったとおりにプログラムされたとおりに
指の運動演奏なら
魂に響く音楽は聞こえてこない。
それならオルゴールのほうがマシだ。
しかし、例え技術が追いついていなくても「いまここ」で魂が表現すれば貴方だけの音が奏でられる。
絵を描く場合でも同じだ
幼稚園の園児が素晴らしい絵を描くことがある。
この子には才能があると
無理やり絵を習わせたとしよう。
大人になって彼女は綺麗な絵を描くが
あの素晴らしい絵は逃してしまうかもしれない。
彼女は「いまここ」を遠い昔に忘れてきたのかもしれない。
しかし「いまここ」を取り戻せばいつでも彼女は天才に戻れる。
「いまここ」とはわくわくすること
生き生き生きている瞬間だ。
世間では景気の先行きが心配だの、
災害が来るかもしれないだの、
老後のことや、まだなってもない病気の心配で
取り越し苦労ってやつですか
それにすでに終わったことに対しても
憎んだり、見返してやるだの、心に傷が付いただの・・・
それも皆さんにとっては大変大切かもしれないけど
もっともっと大切な「いまここ」はどこに行っちゃったんですか?
例えば
うまいもの食うのに評論家がノウガキばかりたれてるのと同じよ。
食べてみてうまけりゃ良いじゃないの
いくらすごい物でも口に合わなけりゃ仕方が無いじゃないの
そういう個人の考えを言えない世の中だから「いまここ」を忘れちゃうのよ。
もうひとつ例えば
小学校の教室で先生が最初の生徒に質問した。
先生 「~について思ったことを答えてください」
生徒 「みんなと同じ答えです」
先生 「そうです、よくできました」
おかしいよね?
でも大人の世界ってそうでしょ?
2015年01月17日
老子 第二十章 「愚者」
老子のメッセージをチャネリングするシリーズも今回が20回目。
古典の老子の原文は八十一章まであるからまだまだ続くのかな?
今回のテーマはタロットで言うところのFOOL(愚者)です。
愚者
彼は自由だ
何も持っていないが全てを備えている。
そこいらの人間のように知識を自慢することも無いので偉く見えない。
だから馬鹿にされても意味が無いので平気だ。
そこいらの人間のように肩書きや身分は持たないので尊敬もされない。
だから差別されても平気だ。
そこいらの人間のようにお金や物に振り回されないので裕福に見えない。
だから犯罪とも無縁だ。
そこいらの人間のように愚痴や文句はでない。
だから敵がいない。
そこいらの人間のように無駄に自然を破壊しない。
だから地球に愛されている。
そこいらの人間のように無理な戦いはしない。
だから宇宙に導かれる。
彼は自由だ
何も持っていないが全てを備えている。
今日も彼の旅は続く。
2015年01月15日
老子 第十九章 「作為を捨てる」
老子 第十九章です。
テーマは「作為を捨てる」
タオでは自然に反するものは全て作為と呼ばれます。
だからタオでは人間の才能や道徳を比較する必要も無い
評価もしない。
すべてがあるがままに力強く営まれるのが自然であれば
怠けていたり甘えている奴は自然淘汰されるのみ。
社会的に保護されるから弱くなる人間もある。
でもそれは社会自体が作為だからしかたがない。
今我々は作為と自然のハザマで何とか綱渡りして生きている。
だから作為にはまりきっては危険だ。
もし作為の谷へ真っ逆さまに墜落すれば
人間(自然)を捨てて生きていくことになる。
まずはあなたの人生をよく観察して作為を探してみよう。
そして出来るだけ自然と置き換える努力をしてみてはどうだろうか?
2015年01月13日
ダルマの初夢 宇宙人??
新年から何かと忙しくてブログ更新お久しぶりです。
皆様お元気ですか?
初夢のブログ書きましたが
ダルマの初夢は何と
宇宙人にさらわれる夢でした。
それも一日二日と二夜連続です。
もしかして寝ている間に
本当にさらわれていたりして
子供の頃から良く見る夢が宇宙人の夢です。
宇宙人て本当にいるのでしょうか?
でも夢を持つのって大切よ。
夜見る夢の一部は
人生の夢を整理しているのかもしれない。
今年も夢を持って生きよう。
何でも自分しだいだからね。
2015年01月04日
老子 第十八章 「大道廃れて仁義あり」
老子 第十八章
「大道廃れて仁義あり」
みんなは孝行息子や忠君、仁義などをほめるが
そういうものが出てくるまでの土壌は最悪なものだったんだ。
例えば
道楽親父が家庭を放り出すとしかたなく孝行息子が出る。
国家の領主が愚かで人民を苦しめるから忠臣が出てきて救ってくれる。
時代が墜落したから人間愛や正義を取り戻すために仁義を説いた。
あの高名な歩く道徳(孔子)が
老子に道徳について問答したとき
あざ笑われたのも
孔子は道徳に囚われるあまり
自然な生き方を見失っていたからかもしれない。
人間関係の体裁VS宇宙じゃ
勝ち目は無い。
孔子は老子を龍とたたえた。
しかし実際にはその龍の方が人間らしい生き方なのだ。
我々は学校や社会で不自然を学び、
自然を捻じ曲げてなんとか社会生活を送っている。
だが実際には数々のストレスや不条理をかかえ
お金や物に溢れた時代が来ても
未だ幸せとは縁遠い生活だ。
この繰り返しを断ち切るときが来ているのではないか?
体裁に縛られた孔子の時代が終わり
老子の宇宙時代がやってくるなら
まだまだ人生捨てたものじゃない。
2015年01月03日
初夢 2015
みなさん今年の初夢覚えていますか?
一般的に富士山の夢が一番良いとか言われていますが
それならヒマラヤ山脈のエベレスト山の夢ならもっと良いのですか?なんて
それにしても意外と見た夢を覚えてない人が多いんです。
心理学的には夢とは未整理の心理状況を整理するときに見るという考えもあるそうですから
もし夢を見ない人がいればそれはそれで整理済みと言うことで素晴らしいのですが。
でも実際は見ているのに夢を覚えてないのはもったいない話じゃないかな?
あまり夢を見ないという人がいますがほとんどが忘れているんだと思うよ。
朝起きたときに覚えていた夢も起きて活動すると忘れるもん。
だからダルマは忘れないうちに夢日記つけてるんだ。
さあ今からでも間に合うよ
枕元に紙と鉛筆置いておやすみなさい。
よき夢を。
2015年01月02日
老子 第十七章 「リーダーシップ」
老子 第十七章
今年一番の老子のテーマは「リーダーシップ」
老子曰く
最も優れた王様(リーダー)は自分の働きや手柄を人々に知らさなかった。
そして国家が平和になると退き人民に自由を与えた。
人民は自分たちの力で幸せを作り出したと思い幸せに暮らしました。
次の時代の
王の後継者は特に何も出来なかったが
先代の功績のおかげで
人々から親しまれ、褒めたたえられ、愛されました。
さらに次の時代の
王の後継者は悪しき王となり富と権力を独占、
人民を支配し恐れられた。
大王様は人民を疑い数々の規則、悪法が制定される。
悪名高き大王様は世界の歴史に名を残した。
さてさてさらに次の時代になるとどんな王が現れるのか?
人々に侮られる人間が王(リーダー)になるという。
人民はリーダーを軽蔑し、リーダーは本業以外で機嫌取りばかりをする。
この世は乱れ、人民は文句ばかり
全ては他人のせいになる。
人民とは良き世には笑い、悪しき世には泣くもの。
それを与えるのはリーダーのお役目である。
それらは自然の摂理のように流れ続ける。
本当に良いリーダーとはタオのように無理の無い自然な立場の行動者だ。
一国の政治にはじまり、職場においても家庭においても
タオのリーダーが居ないと最悪の状況へまっしぐらだ。
さて今の世の中はどうだろうか?
上のどの時代か解るかな?
2015年01月01日
2015年 あけましておめでとうございます。
2015年
あけまして
おめでとうございます
昨年は皆様のおかげで
ヒーリングサロン フェアライトを
営業させていただき
ありがとうございました。
本年もよろしくお願いします。
新年は
一月六日(火曜日)午前10時頃よりオープン予定です。
よろしくお願いします。
ダルマ