2017年05月12日

ネオ老子の道 「欲望の果なきくり返し」


もう少し、
深める意味で
我々の欲望の
果てなき繰り返しについて
書いてみます。

欲望の果てなき繰り返しとは
普段の我々の生活そのものです。

欲望が無くならないから
農商工業も発展してきました。

経済も欲望なしでは語れません。

しかも、
これだけ見かけで
発展してきたのは、

手を変え品替えの
くり返しだとは
誰も気付きたくないからです。

ですから、
学校の授業でも
素晴らしい発展歴史を教えます。

見かけの変化を見せて
安心させるわけです。

誰一人として
このメビウスの輪から
逃げないように
仕組みます。

僕の世代も
「高度成長期」と言う言葉に
夢震わせました。

万国博覧会や数々のお祭り
我々は発展に間違いないと
確信させられ続けます。

「これだけ立派だから
きっと前に進んでいる
決して
繰り返してはないと」

我々は
見たくないものには
しっかりフタをしてきました。

そのフタとは
目をそらすことです。
視野を狭めることです。
昨日書いた
「純粋」とは真逆のことですね。
つまりどちらかというと
それが極まれば不純です。

実は
何かに対して
「不純だ」と
極端に目をそらす人自身が
不純なのです。

これは
深すぎる話ですから
気に障った人は
「深いところでは、そうだから」
と自分には関係ないと
思ってください。


そして、
現在のように
必要以上の
欲望にまみれることで

欲望が
野望に変わると
エナジーは、
全体的には逆に
弱くなっているのです。

傘に例えると
どんなに立派な傘でも
一人用では
他人を
おおいきれません。

例えば
一国のリーダーが
自身の保身を
第一に欲望する
そんな弱い野望では
自らも危ういのです。

野望とは立派ですが
一人用の
小さな傘なのです。

昨日の話では
ステップとしての

欲望の純粋化
強靭化をお話ししましたが

実際我々は
強めているつもりで
弱めている、
純化しているつもりが
不純になる。

しかも無意識のように
それらが
繰り返されていると
言うのが
実際の欲望の
現状なのだと

気付いたとしても

なかなか
厄介なものです。

とネオ老子さんも
つぶやいています(笑)














ダルマ

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Posted by ダルマ at 07:00Comments(0)老子 タオ(道)